2022年5月17日、SixTONESの7枚目のシングル「わたし」のMVが公開されました!
MVのクオリティが高いことなど、話題のMVとなっていますね。
実はこのMVには、様々な”仕掛け”があるようです。
今回の記事では、SixTONES「わたし」のMVを徹底深堀していきます!
もくじ
SixTONES「わたし」のMVを考察
SixTONES「わたし」のMVですが、色々な仕掛けがあると話題です。
歌詞とのリンクや、それぞれの映像の描写も見ながら見ていきましょう。
SixTONES「わたし」のMV考察8選!
SixTONES「わたし」のMVを、それぞれのシーンで8つ抜粋して考察していきたいと思います。
それでは、一つずつどうぞ!
①『ニゲラの花束』の意味
「わたし」のMVの最初のシーンでは、松村北斗さんが京本大我さんに花束を渡すシーンがあります。
- 舞台は、薄暗い殺風景な屋内通路。
- 不自然に向かい合って置かれた椅子に、京本大我さんが座っている。
- 背中に花束を隠した松村北斗さんが歩み寄り、花束を渡す。
- 京本大我さんが立ち上がり、花束を受け取る。

この松村北斗さんが渡した花が、「ニゲラ」という花なんです。
このMVでは、ニゲラが印象的に使われているんですよね。
ニゲラの花言葉はたくさんあるのですが、制作人は「本当の私」という意味で使っているようです。
松村北斗さんと京本大我さんが向き合ったあと、少し間を置いて遠慮がちに花束を渡しています。
- 自分自身を誰かに知って欲しい…
- でも、少し抵抗があって、本心を知られるのがイヤだ。
- そして最後には、相手に対して心を許した。
そのような感じに、受け取れます。
②仮面を取ったあとに鏡が割れる
冒頭の松村北斗さんと京本大我さんのシーンが終わると、間奏部分に入ります。
ここで田中樹さんが登場し、鏡に向かって手で仮面を取り外すような仕草をするシーンがあります。
そして、田中樹さんが立ち去ったあと、鏡の一部にヒビが入って割れる描写があるんですね。

田中樹さんがその場を離れたあと、ジェシーさんが鏡の前に登場します。
ここまでのシーンを考察すると…
- 鏡→自分の心の象徴
- 仮面→装った本当の姿
- 鏡の前から立ち去る→自分と向き合いたくない、誰にも見せたくない
- ジェシーとのすれ違い→割れた鏡(本当の自分)と重なっているが、気付かない。
こう考えると、田中樹さんが「仮面」という偽った姿を晒す一方、自分の本当の姿とは向き合えない・向き合いたくないという、”葛藤”を物語っているようにも捉えることができますね。
③花束を大事に持つジェシー
鏡のシーンのあと、ジェシーさんは椅子に座り、手に持った花束をじっと見つめるシーンがあります。

ここで、冒頭の松村北斗さんとの違いがあります。
- 花束(本当の自分)を隠さず、目の前に置いている。
- しかし、その先にいる田中樹さんとは視線が合っていない。
- 花束は田中樹さんに渡されることはない。
それどころか、ジェシーさんはニゲラの花束を大事そうに胸に抱え込むんです。
まるで、すぐ近くにお互いがいるのに、それに気付いていないかのようですね。
④カメラを見つめる、田中樹…
このあとのシーンで、椅子に座っている田中樹さんはカメラ目線になります。

このカメラというものが、第3者目線である「周りの姿」だとしたら…
この描写は、ジェシーさんとの比較にもなりますね。
- ジェシーさん→花束という「本当の自分」を見つめ、それで精一杯。周りまで目が届かない。
- 田中樹さん→自分を隠し、八方美人で周りの視線ばかり気にしている。
「無駄なことで疲れるくらいなら…」という歌詞にもなっており、ふとした瞬間、周りを気にしすぎて少し疲れてしまっている…そんなふうにも見えますね。
⑤背中合わせで花束を渡す、信頼関係の描写?
そのあとのシーン。
森本慎太郎さんと京本大我さんが背中合わせで立っています。

2人は背中合わせなので視線は合っていませんが、花束を京本大我から森本慎太郎さんに渡されるんです。
しかもスムーズに!
これを考察すると…
- 背中合わせ→お互い違う道に進む者同士 or ライバル関係
- スムーズに花束を渡す→「本当の自分」をさらけ出せるような間柄
お互い良い距離感でありながら、信頼関係があり、いざという時に助け合えるような関係を物語っているのではないでしょうか。
⑥分かり合えない他人を描写?
続いてのシーン。
こちらも背中合わせ座る、髙地優吾さんと田中樹さんの姿。
しかし、はっきりと『他人』に見え、お互いを干渉し合う感じには見えません。
表情にも、感情が見えないんです。

そこに、2人の前に割って入るように松村北斗さんが登場します。
「あなたに、わたしは見せたくない」で、松村北斗さんは手に持った花束を顔の前に出して隠してしまいます。
これを考察すると…
- お互い近くにいるのに、コミュニケーションを取ろうとしていない。(他人に興味がない)
- しかし、それではダメだと思っている。
- 「本当の自分」の象徴である花束を自分の顔の前に出すことで、コミュニケーションを取ろうとする。
- 実際は自分の顔を隠しており、花束は単なる道具に過ぎなかった…
ここは現代を象徴するかのようなシーンですね。
「本当の自分」の象徴であるはずの花束ですが…。
分かり合えないような他人とコミュニケーションを取ろうとするために花束は姿を変えてしまい、いつしか「本当の自分」では無く、同調圧力の道具になってしまった…。
このような悲しい描写であるようにも感じますね。
⑦花束を渡す→ワタス→わたし?
サビに差し掛かると、花束をそれぞれが渡すシーンが登場。

この花束を渡すシーンに関しては、SNS上で非常に鋭い考察がありました。
- 私の思いを入れて花束を渡す
- それを渡していくから、わたしが奪われる
渡す→ワタス→わたし…と、歌詞とタイトルが合致しています。
スゴイですね…!
⑧ラストの後ろ向きで扉?を見つめるシーン
「わたし」のMVの最期のシーンでは、大きな扉?のようなものが現れます。
そしてメンバー全員が立ち上がり、後ろに花束を隠すようにそれをジッと見つめます。

このシーンを考察すると、
- 大きな扉(?)→新たな挑戦のフィールド or そびえ立つ大きな目標
- 花束を隠す姿→まだ臆病な自分がいて、本心を出すことができない。
少し生きづらい世の中で一人一人置かれている状況は違いますが、
新たなことに挑戦する!
というような、意味が込められているような気がします。

実際、最後のシーンでは光の指す方へみんなが同じ方向へ向いています。
- 光→希望の証
- みんな光をジッと見つめるシーン→希望に向かってこれから進む、という描写
こう捉えることが出来るのでは?と考えます。
SixTONES「わたし」はドラマとピッタリ?!
2022年4月から放送の月10ドラマ、「恋なんて、本気でやってどうするの?」が好評ですが、SixTONESの「わたし」はそのドラマの挿入歌です。

ドラマは、広瀬アリスさん演じる桜沢純が「恋なんて、人生のムダ」だと言って、恋愛から距離を置いている…というのがはじまりです。
松村北斗さん演じる長峰柊真に出会ってから、桜沢純に心境の変化が現れ、次第にお互いが惹かれていくというストーリーです。
この桜沢純の心境の変化は、「わたし」の世界観とよく似ていますよね。
ドラマの最初の頃のストーリーは、「無駄なことで疲れるくらいなら…」という「わたし」の歌詞ともリンクしています!
- 他人には興味が無い
- だけど、それは恋愛から逃げているだけ
- 本当の自分と向き合い、新たな恋に挑戦する
そして、「わたし」の最期の歌詞にも注目です。
「何気ない言葉すら一つ一つ この胸を奪ってゆく」「わたしを奪っていく」
これは、恋に落ちて自分が次第に惹かれていくような感じにも思えますね。
桜沢純の心が、ありえないところまで動いていくのも合致しています!
新たな挑戦や、惹かれていく感じが「わたし」とドラマの世界観を繋げているようにも捉えられます。
まとめ
SixTONES「わたし」のMVを考察してきました。
世の中における、それぞれの生き方や置かれている状況を描写しているのでは?と推測しました。
また、最期には新たなフィールドに挑戦する姿も見られ、ドラマの世界観とピッタリであるようなこともわかりましたね。
今後も、SixTONESの歌詞やMV、そしてドラマの展開にも注目していきましょう!
それではまた!